11月8日配信 神宮火災事件とネットでの忘れられる権利について

先日あった神宮のデザインウィークで、5歳の男の子が亡くなった事件と、
ネットでの忘れられる事件についての話。

ネットで事件が起きた時の情報はいつまで、
どのように残すべきでしょうか。

例えば新聞は、紙というものに印刷されて何かしらのニュースを人に伝えます。

新聞は、紙に縛られている為(だから私は大好きですが)、

常に、いつの事件であるかわかるメディアです。
あまり知られていませんが、1行でも新しい情報がなければ、

続報というものを出すことができません

そのため、日付で追えば最新情報がいつのものかわかります。

 

一方、インターネットは、時間軸に縛られないメディアです。
ニュースを出す人もブログを書く人も混在し、

タイトルだけを変えて常に新しい顔をしているニュースが沢山あります。
発信者の考え方の違いも見えますが、事実を追おうとしたときに

どのニュースが最新の事実をまとめたものかよくわからなくなります

どのニュースも、常に新しく見せることができるからです。

何年も前にミクシーで流行っていた動画が、

FBで「初めて見た!」と、数年後に流行ったりするのも同じようなものだと思います。


これは、メディアの特徴だから、仕方のないことだと思います。

とはいえ、ある程度規制というか、ネットに出した情報を常に最新にしないように

行動することを考える時代になってきているのではないのでしょうか。

 

昨年のことだったと思います。

FB上で行方不明の子を探すシェアがありました。

私は、本当にその子が「いるのか」「現在も行方不明か」を確認し、

友人達へ向けシェアをしました。

シェア後、1か月ほどして、たびたび情報を確認していた私は

行方不明のニュースがあった子が、無残な姿で見つかったことを知りました。

そして、シェアした情報を削除しました。

 

しかし、それから数日して

ふと、友人のシェアに気が付きました。

友人は、行方不明の子を探すシェアをしていました。

すでに悲しい結果の出てしまった事件だというのに、

好意でシェアをしていました。

 

このとき、私はゾッとする思いにかられました。

私は、その情報を確認していましたが、確認しなければ、

その情報がどうなったかなんて私にはわかりません。

けれど、その情報自体は、中身が古くてもネットにあれば

常に「今」の情報だと勘違いされ、拡大されていくのです。

 

これ、すごく恐ろしいことですよね。

このとき、悲しい結末に終わりましたが、

もし行方不明の彼女が無事に戻ってきた時にもそのシェアがずっと

拡散されていくかもしれないことを想像してみてください。

 

その時の彼女が10歳だったとして、20、30、40、50になっても

誰かの好意でシェアされていく10歳の彼女が行方不明になったという情報は、

彼女の本来歩める日常生活を常に脅かす可能性や、

同時に何年たっても解決されたことが周知されず「誘拐された子ではないか?」

と、思われる危険性が高いと感じました。

 

そうしたことから、例えば、行方不明などに関しては、

事件が一端の結果が出た時点でネット上の少なくとも「画像・動画情報」は

無くなるような仕組みができるべきではないかと思います。

 

またそれと同じく、

今回の神宮の事件のように「人が亡くなった場所」に関して、

画像や動画が上がりにくくなるようにできないかと、私は願います。

 

画像や動画は、とても情報量が多いものです。

当初は報道の意味もあるのでしょうが、

亡くなった方の周囲の人にとり、そうした情報は強く喪失を想起させるもの

なのだと感じます。

 

だから、悲しい記憶の残る場所についての記事などで、

最初は報道ですからともかく、しばらくしたらクリックしないと画像が出なくなるとか

何かしらのワンクッションを、発信者それぞれがどこかの誰かへの思いやりとして考えることができるようになったらいいのにと思います

 

この日、ネット上の忘れられる権利についての訴訟や、

その状況についても話しましたが、

大きな組織であってもネット上の情報を消しきることは困難です。

 

犯罪者や、被害者自身についての忘れられる権利についての

裁判などは多くの国で発生しています。

被害者の周りの人の心の傷を無くすような権利は、

戦って勝ち取るようなものではありません

だから、発信者の皆さんに考えてほしいのです。

その画像はいつまでも「今」の顔をさせてそこに置いておくべきものなのかと。

新聞などこれまでのメディアとは違うネットの世界では、

「過去」も「今」もおなじ時間軸にあるようなものです。

過去を知ること、発信すること、事実を多角的に見ること、

どれもとても大切なことだと思います。

だからこそ、

一度、考えてみてくださいませんか?